第1回は、昭和53年9月15日、大阪で第44回日本中部眼科学会の折に行われたが、本会の歴史は、その前身を眼科顕微鏡手術の会に求めることができる。1966年に西独チュービンゲン大学で第1回のSymposium of the Microsurgery Study Groupの会が行われた。これが眼科手術用顕微鏡による今日の眼科手術の隆盛の契機となった。第2回が1968年にスイスのBurgenstockで行われた。たまたまストラスブール大学に留学中の筆者はこの会に出席する機会を得た。眼科手術用顕微鏡の利点、顕微鏡下で新しく開発された手術に強く打たれた。帰国後、わが国でもすでに独自に顕微鏡手術を始めていた天理の永田誠、名古屋の杉田慎一郎に呼びかけ、わが国でも眼科顕微鏡手術の研究会を発足させることとなった。
1.眼科顕微鏡手術の会
第1回眼科顕微鏡手術の会は3名の呼びかけで昭和45年2月に天理病院で行われた。眼科医、光学メーカー、機器メーカーにも呼びかけ52名の参加者があった。研究会は年2回行い、春は2月の第2日曜にinformal closedの研究会、秋は臨床眼科学会のグループディスカッションのような形式でformalでopenの会とすることが決められた。この会の特徴は眼科医のみならず関連業界にも広く参加を求めたことであり、産学協同の実が上り今日の眼科手術学会の進歩に寄与すること大なるものがあった。このときの永田の記録に、「手術用顕微鏡の眼科手術における意義についての評価は今後、顕微鏡手術の経験者が増加した後に次第に定まってくるであろうが、今後、顕微鏡手術の眼科手術に占める位置は次第に重要なものになってくることは、今回の研究会の討論を通じて明確に感じ取ることができた」とある。まさに卓見であり、現在のわが国の眼科手術学の進歩、発展を予測したものであった。この会は昭和52年7月まで14回行われた(表1)。第4回の時にこの会をもっとしっかりしたものにしようとの議が起こり、永田誠、杉田慎一郎、林文彦、湖崎弘、三島濟一、小暮文雄の6人が世話人となり会を運営することとなった。代表世話人を永田とした。会員組織として正会員は眼科医師26名、準会員は関係業者とした。この会は手術という実学を対象としたものであるだけに大学関係者よりも手術に興味を持つ臨床医が中心となったことは、日本の眼科関連学会の中では特別な存在であり、日本眼科医療の流れのなかに一つの道を作ったといっても良いだろう。この頃は眼科顕微鏡手術の発達期ともいうべきで、各種顕微鏡の比較、使い方、顕微鏡下手術器具、顕微鏡下での白内障、緑内障、角膜移植手術などが論じられ、顕微鏡なしには出来ない手術、トラベクロトミーなどがようやく行われ始めた。第8回で初めて映画の供覧が行われ、スライド発表の時代から動的映像発表への移行が始まったといえよう。竹内光彦によるiris clip iridocapsular lensの発表、杉田によるvitreous surgeryの映画が供覧された。第9回でビデオが積極的に取り入れられるようになった。昭和49年10月に顕微鏡下手術の加算が健保に採用され、以後、眼科顕微鏡手術は爆発的に広がっていった。昭和50年2月に第11回最後のclosedの会が大阪で行われ、初めて人工水晶体のシンポジウムが行われた。この時から世話人に坂上英、竹内光彦、馬嶋昭生、清水昊幸の4名が加わった。第14回は昭和52年に日本眼内レンズ研究会、硝子体手術研究会と共催で行われた。超音波手術の演題も増え始めた。
2. 日本眼科手術学会創立
眼科顕微鏡手術の会の歴史は14回で終わりを告げる。参加者が多くなりclosed制に対する批判が高まってきた。また、白内障研究会、硝子体手術の会、眼内レンズ研究会などとの共催が増えてきた。眼科顕微鏡手術は、手術の基本的なものであり、他の眼科手術関係の会を含めて考えるべきであるとの認識が一般化してきた。サロン的なclosedの会は、その発展期にはよいが、質的向上が達成され一般に広く普及し始めたときには、かえってその害が大きい。湖崎、小暮が協力して関係研究会、グループに呼びかけ、日本眼科手術学会が昭和53年9月に発足した。斜視:稲富昭太、丸尾敏夫、緑内障:高久功、網膜剥離:塚原勇、超音波手術:馬嶋慶直、人工水晶体:早野三郎、硝子体手術:松井瑞夫、福田雅俊、角膜:眞鍋禮三、外傷:深道義尚、形成:久冨潮が世話人に加わった。第1回日本眼科手術学会は昭和53年9月に大阪で東郁郎会長、湖崎弘世話人として行われ、200名の参加があった。会は次回からは毎年1月末に行われることが定められた。第5回は福岡で林会長のもとに演題が2日で消化できなくなり3日間行われた。このころになると後房レンズ、closed eye surgery、硝子体手術の演題が増えてきた。ビデオ講演が行われるようになった。第7回は海を渡り那覇で福田会長、特別講演に三島濟一の「手術と眼組織反応」があった。本会が単なる手術の方法、技術を論じるだけでなく基礎的な問題を捉え学問的裏付けを持って着実に進んでいることを示している。その後、回を重ねるごとに本会は隆盛を来している(表2)。第12回まで永田が世話人代表として会の運営にあたった。会員が増えたため、会則を定め、会費を集め会員組織による本格的学会へとの機運が高まってきた。会則が平成2年2月に定められた。日本眼科手術学会の組織が確立され小暮文雄が理事長となった。事務局を株式会社学会綜合企画内におき事務処理にあたらせることになった。会の英文名はJapanese Society of Ophthalmic Surgeonsと決められた。学会発足時の役員を文末に示す(表3)。
3. 日本眼科手術学会雑誌創刊
第1回以来、丸尾敏夫の好意で「眼科臨床医報」に原著ならびに学会記録を掲載してきた。昭和63年に三宅謙作を編集長としてメディカル葵出版から「季刊眼科手術」が創刊された。どちらを本会の機関誌にするかにつき紆余曲折はあったが、「季刊眼科手術」を日本眼科手術学会誌とすることに定め年4回、将来は6回発行と定めた。編集長に三宅謙作を選任した。
4. その後の歩み
手術は従来、いささか手技のみ重きが置かれた感がある。しかし、手先の技術のみに溺れていたのでは進歩に限りがある。その手技によって来る理論がなければならない。学問的裏付けがあってこそ真の技術の進歩である。眼科手術学会は今や一つの体系付けられた学問、科学である。この意味で本会の果たしてきた役割は極めて意義深いと言えよう。平成3年に年齢、地域性、専門性を考慮して若手の理事12名を増員した。今や眼科領域では3大学会の一つに数えられ、平成5年には学術会議の学術研究団体へ登録が認められた。(小暮文雄「日本眼科手術学会記録」「銀海」103.20-24、昭和60.)
眼科顕微鏡手術の会 | |||
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回数 | 開催年月日 | 世話人 | 開催会場 |
第1回 | (1970年)昭和45年2月 | 永田 誠 | 天理病院 |
第2回 | (1970年)昭和45年10月 | 小暮 文雄 | 東京・国立教育会館 |
第3回 | (1971年)昭和46年2月 | 杉田慎一郎 | 名古屋・中日ビル |
第4回 | (1971年)昭和46年9月 | 三国 政吉 | 新潟県医師会館 |
第5回 | (1972年)昭和47年2月 | 林 文彦 | 博多・法華クラブ |
第6回 | (1972年)昭和47年9月 | 三島 濟一 | 東京・久保講堂 |
第7回 | (1973年)昭和48年2月 | 湖崎 弘 | 大阪ファミリー会館 |
第8回 | (1973年)昭和48年9月 | 馬嶋 昭生 | 名古屋市立大学病院 |
第9回 | (1974年)昭和49年2月 | 松尾 治亘 | 東京医大 |
第10回 | (1974年)昭和49年10月 | 中尾 主一 | 奈良県民会館 |
第11回 | (1975年)昭和50年2月 | 塚原 勇 | 大阪ファミリー会館 |
第12回 | (1975年)昭和50年9月 | 清水 昊幸 | 宇都宮グランドホテル |
第13回 | (1976年)昭和51年11月 | 眞鍋 禮三 | 御堂会館(南御堂) |
第14回 | (1977年)昭和52年7月 | 坂上 英 | 愛媛県医師会館研修所 |
日本眼科手術学会総会 | |||
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回数 | 開催年月日 | 世話人 | 開催会場 |
第1回 | (1978年)昭和53年 9月15日 | 東 郁郎 | 御堂会館大ホール |
第2回 | (1979年)昭和54年 2月3~4日 | 杉田慎一郎 | 愛知県産業貿易館 |
第3回 | (1980年)昭和55年 1月26~27日 | 湖崎 弘 | 近畿大学病院講堂 |
第4回 | (1981年)昭和56年 1月23~24日 | 深道 義尚 | 昭和大学上條講堂 |
第5回 | (1982年)昭和57年 1月29~31日 | 林 文彦 | 福岡郵便貯金ホール |
第6回 | (1983年)昭和58年 1月28~30日 | 松井 瑞夫 | 日本都市センター |
第7回 | (1984年)昭和59年 1月27~28日 | 福田 雅俊 | 那覇市民会館 |
第8回 | (1985年)昭和60年 1月25~27日 | 小暮 文雄 | 宇都宮市文化会館 |
第9回 | (1986年)昭和61年 1月31~2月2日 | 高久 功 | 長崎市民会館 |
第10回 | (1987年)昭和62年 1月23~25日 | 丸尾 敏夫 | ホテルメトロポリタン |
第11回 | (1988年)昭和63年 1月29~31日 | 稲富 昭太 | 国立京都国際会館 |
第12回 | (1989年)平成元年 1月27~29日 | 馬嶋 慶直 | ホテルナゴヤキャッスル |
第13回 | (1990年)平成2年 2月23~25日 | 眞鍋 禮三 | マイドーム大阪 |
第14回 | (1991年)平成3年 1月25~27日 | 清水 昊幸 | 大宮ソニックシティ |
第15回 | (1992年)平成4年 1月24~26日 | 山本 節 | 神戸国際会議場 |
第16回 | (1993年)平成5年 2月5~7日 | 増田寛次郎 | パシフィコ横浜 |
第17回 | (1994年)平成6年 1月28~30日 | 大島 健司 | 福岡サンパレス |
第18回 | (1995年)平成7年 1月27~29日 | 本田 孔士 | 国立京都国際会館 |
第19回 | (1996年)平成8年 1月26~28日 | 北澤 克明 | 長良川国際会議場 |
第20回 | (1997年)平成9年 1月31~2月2日 | 金井 淳 | パシフィコ横浜 |
第21回 | (1998年)平成10年 5月20~24日 | 玉井 信 | 仙台国際センター |
第22回 | (1999年)平成11年 1月29~31日 | 臼井 正彦 | 東京国際フォーラム |
第23回 | (2000年)平成12年 1月28~30日 | 三宅 謙作 | 名古屋国際会議場 |
第24回 | (2001年)平成13年 1月26~28日 | 田野 保雄 | 大阪国際会議場 |
第25回 | (2002年)平成14年 1月25~27日 | 三嶋 弘 | 広島国際会議場 |
第26回 | (2003年)平成15年 1月31~2月2日 | 木下 茂 | 国立京都国際会館 |
第27回 | (2004年)平成16年 1月30~2月1日 | 樋田 哲夫 | 東京国際フォーラム |
第28回 | (2005年)平成17年 1月28~30日 | 大橋 裕一 | 大阪国際会議場 |
第29回 | (2006年)平成18年 1月27~29日 | 小出 良平 | 東京国際フォーラム |
第30回 | (2007年)平成19年1月26~28日 | 西田 輝夫 | 国立京都国際会館 |
第31回 | (2008年)平成20年2月1~3日 | 清水 公也 | パシフィコ横浜 |
第32回 | (2009年)平成21年1月23~25日 | 根木 昭 | 神戸ポートピアホテル |
第33回 | (2010年)平成22年1月22~24日 | 新家 眞 | 東京国際フォーラム |
第34回 | (2011年)平成23年1月28~30日 | 下村 嘉一 | 国立京都国際会館 |
第35回 | (2012年)平成24年1月27~29日 | 小椋 祐一郎 | 名古屋国際会議場 |
第36回 | (2013年)平成25年1月25~27日 | 石橋 達朗 | 福岡国際会議場 |
日本眼科手術学会学術総会 | |||
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回数 | 開催年月日 | 世話人 | 開催会場 |
第37回 | (2014年)平成26年1月17~19日 | 常岡 寛 | 国立京都国際会館 |
第38回 | (2015年)平成27年1月30~2月1日 | 妹尾 正 | 国立京都国際会館 |
第39回 | (2016年)平成28年1月29~31日 | 林 研 | 福岡国際会議場 |
第40回 | (2017年)平成29年1月27~29日 | 高橋 浩 | 東京国際フォーラム |
第41回 | (2018年)平成30年1月26~28日 | 板谷 正紀 | 国立京都国際会館 |
第42回 | (2019年)令和元年2月1~3日 | 太田 俊彦 | パシフィコ横浜 |
第43回 | (2020年)令和2年1月24~26日 | 天野 史郎 | 東京国際フォーラム |
第44回 | (2021年)令和3年2月10~3月9日 | 北岡 隆 | WEB開催 |
第45回 | (2022年)令和4年2月16~3月31日 | 加賀 達志 | WEB開催 |
第46回 | (2023年)令和5年1月27~29日 | 西村 栄一 | 東京国際フォーラム |
日本眼科手術学会役員(平成2年2月) | ||||
理事長 | 小暮 文雄 | |||
理事 | 稲富 昭太 | 大島 健司 | 湖崎 弘 | |
坂上 英 | 清水 昊幸 | 竹内 光彦 | ||
久冨 潮 | 深道 義尚 | 福田 雅俊 | ||
本田 孔士 | 馬嶋 昭生 | 馬嶋 慶直 | ||
増田寛次郎 | 松井 瑞夫 | 眞鍋 禮三 | ||
丸尾 敏夫 | 三宅 謙作 | 山本 節 | ||
監事 | 永田 誠 | 林 文彦 |